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zoom RSS 黙過とidentity crisis

<<   作成日時 : 2009/02/08 23:00   >>

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 今日行われた講演を聴いて、黙過と identity crisis と云う語が私の頭に残った。

 亀山郁夫さんの講演が愛大であると云うので是非とも参加したく出掛けた。以前 (1年ほど前?) NHK-FMの ‘日曜喫茶室’ のお話で亀山さんの話に魅了され 『カラマーゾフの兄弟』 を全巻購入していたのだが、しばらく積読状態で、今回の講演会が開催されることを知って慌てて読み始めた次第である。 いままでに解説しか読まなかったことは先生には申し訳ないが、今後、本文を読み続けるので堪忍して戴きたい。

 さて、講演中の話で、黙過とidentity crisis と云う語に合うことができた。黙過は次のような意味をもつ。黙過:知らぬ風をして、そのままにしておくこと。みのがし。[広辞苑](ちなみに、看過:@見のがすこと。大目にみること。A見すごすこと。見おとすこと。[ibid])
 さらに、亀山さんによると、黙過には、‘全能性の’感覚、‘神的’な感覚があるらしい。

 ‘黙過’は、ドストエフスキーの小説では神 (の存在、能力)を試すために使われる。そうして‘神’の力が及ばなかったことに対し (小説内の場景は省く)、‘神は死んだ’の考え (あるいは確認) に行き着き、黙過した観察者が神に成り代わるのであろうと、私なりに理解した。

 講演の最後に、とある参加者の質問にならない‘質問’に対し、亀山さんはやさしく ‘ドストエフスキーの小説理解にはキリスト教の知識はほとんど必要ありません。’と応えられたのが印象的でありました。いろいろと興味のもてる話を、2時間と云う短い間で話されていたが、また、思い出しながら考えよう。

 草堂に帰って、‘神は死んだ’ と ‘神も仏もあるものか’ を考えてみた。2者では受け取り方の凄みが違うように思えてきた。
 昔、F.W.Nz.も使っていた ‘神は死んだ’ は、キリストないし、キリスト教 (and/or神父) に対する駄々っ子的な考え方 ‘anti-’ だと思っていた。今はそうではなく、‘神は死んだ’ は絶対神が存在しないことに気づいたショックであり、自らの日常(生活)も危うい感覚である、と考えるようになってきた。
 それに対して ‘神も仏もあるものか’ は頼るべき神が助けてくれないことを嘆いており、これも絶望の極みではあるが、彼岸から助けが来ないことを意味しているような気がしてならない。

 助けが 「ない」 と、助けが 「来ない」、「間に合わない」 とでは全く感覚が異なるのである。つまり、創造主である神の中あるいは下 (いずれにせよ、世界-the universe)で生活している者 (いわゆる一神教)と、神と共存して生活している者 (いわゆる多神教)とでは感覚が異なる。God(capital ‘G’)とsomething godの違いだな。と思ってしまうのである。

 identity crisis は目下考え中と云うことにしよう。と思ったが、立志の歳を迎えて以降、ずっと identity crisis の中にあり、そのことを考えることはできないのである。そういった意味において、‘私は死んだ’。

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